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大阪地方裁判所 昭和63年(ヨ)3206号 決定

申請人

佐藤喜代子

右申請人代理人弁護士

永田雅也

右同

吉木信昭

被申請人

株式会社澤井商店

右代表者代表取締役

澤井壮太良

右被申請人代理人弁護士

島武男

右同

松田親男

右同

堀井弘明

主文

被申請人は申請人に対し金三六〇万円及び平成元年四月一日以降第一審の本案判決言渡しに至るまで毎月二五日限り金四〇万円を仮に支払え。

申請人のその余の本件申請を却下する。

申請費用は被申請人の負担とする。

理由

第一当事者双方の申立及び主張

一  申立

1  申請人

申請人が被申請人に対し、雇用契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める。

被申請人は申請人に対し、金二〇〇万円並びに昭和六三年九月一日から本案判決確定に至るまで毎月二五日限り金五〇万円及び毎年八月一〇日と一二月一〇日限り金五〇万円を仮に支払え。

申請費用は被申請人の負担とする。

2  被申請人

本件申請を却下する。

二  主張

1  申請人

(一) 当事者

被申請人は、酒類の販売などを業とする株式会社であり、創業者である澤井忠良が昭和二四年に個人商店として始めた酒類の小売業を、昭和四四年九月二七日に法人化したものであるところ、被申請人の代表者であった澤井忠良が昭和六二年九月二三日に死亡したため、長男の澤井壮太良が同月二六日に代表者となった。

申請人は、被申請人の前身の個人商店の時代である昭和三〇年八月に経理担当者として雇用され、同商店が法人化後も経理担当者として勤務していた者である。

(二) 雇用関係の有無

昭和六三年五月末、被申請人の代表者澤井壮太良が申請人に対し、昭和五九年九月ころの税務調査において申請人の不手際により脱税を発見され、被申請人に多額の損害を負わせたことや、被申請人の元従業員で先に懲戒解雇されて退職した後、被申請人と同じ酒類販売業を営んでいた中井保に被申請人の顧客からの注文を回して被申請人に損害を与えた等の理由を挙げて、「同年六月三〇日までに退職願いを提出しない限り懲戒解雇にする。懲戒解雇であれば退職金も出ないが退職願いを出せば退職金も払う。」等と強迫した。そのため、申請人は懲戒解雇されて退職金も貰えなくなることを恐れ、同年六月三〇日被申請人に対し、退職願いを提出した。しかし、被申請人のいう懲戒解雇事由は事実無根であり、申請人には何ら懲戒解雇されるべき事由はなく、申請人の本件退職願いは強迫による意思表示である。そこで申請人は同年七月二九日付け書面により右退職願いを取消す旨意思表示し、右書面は同年三〇日被申請人に到達した。

よって、申請人の本件退職願いによる任意退職はその効力を生じず、申請人は被申請人に対し、引き続き雇用契約上の地位を有するものというべきである。

(三) 給与等請求権

(1) 申請人は、従来被申請人から毎月二五日限り月額金五〇万円の給与の支給を受けていた。但し右金額のうち金一〇万円は、形式的には別会社である栄良産業株式会社(以下「栄良産業」という。)の名義で支給されていたが、右会社は実質的には被申請人の一部でその不動産の賃貸部門として機能しており、右金一〇万円も実質的には被申請人からの給与である。

また、被申請人においては、従業員に対し一時金として毎年八月一〇日と一二月一〇日にそれぞれ約一か月分を支給している。

(2) 従って申請人は被申請人に対し、次のとおり合計金二〇〇万円の未払給与等の請求権を有する。

昭和六二年八月一時金不足額 二五万円

同年一二月一時金不足額 二五万円

昭和六三年八月一時金未払額 五〇万円

同年七月給与 五〇万円

同年八月給与 五〇万円

(3) また、申請人は被申請人に対し、昭和六三年九月一日以降前記給与と一時金の請求権を有する。

(四) 保全の必要性

申請人は、被申請人からの給与のみによって生活していたものであり、しかも同居している母親(明治三五年生まれ)を扶養し、かつまた夫と離婚し子供を抱える長女の生活費を援助している状況で、仮処分決定によって早急に給与等の支払を受ける必要がある。

2  被申請人

(一) 申請人の主張(一)の事実は認める。

(二) 同(二)の事実中、被申請人の代表者澤井壮太良が申請人に対し、中井保との関係や税務調査における申請人の不手際を理由に退職を勧告したこと、申請人が本件退職願いを提出したこと及びその取消の意思表示をなしたことは認め、その余は争う。

申請人は被申請人の元従業員で横領事件により懲戒解雇となった中井保が、被申請人の同業者で販売地域が競合するニシムラ物産株式会社(以下「ニシムラ物産」という。)に就職するにつき、身元保証人になったり、その債務を保証するなどして援助、協力し、また被申請人に対する顧客からの注文を同人に回して顧客の被申請人に対する信用を失墜させるなどの背信行為を行っており、さらに昭和五九年九月ころの税務調査の際、帳簿管理の不手際により被申請人に多額の損害を負わせたこともあるなど、申請人には懲戒解雇に相当する事由が存したのである。しかし、被申請人は申請人を直ちに懲戒解雇にすることを差し控え、前記事由の存在を説明したうえ、穏便に退職を勧告したものであり、「退職願いを提出しなければ懲戒解雇にする。」とか、「懲戒解雇であれば退職金が出ないが、退職願いを出せば退職金を払う。」というようなことは言っていない。従って、本件退職願いは被申請人の強迫によるものではなく、申請人において右勧告から約一か月の期間熟慮のうえ提出し、かつその際異議なく退職金等合計金二五〇万円を受領したことからしても、本件退職願いが申請人の真意に基づくものであることは明らかである。

(三)(1) 同(三)の(1)の事実は争う。

申請人が被申請人から支給されていた給与は月額金四〇万円であり、栄良産業は被申請人とは営業目的が異なり、被申請人の一部ではない。

(2) 同(三)の(2)は争う。

被申請人は申請人に対し、昭和六二年八月と一二月に一時金として各金二五万円を支給したが、右金額は申請人が被申請人に与えている不利益を考慮して相当な額と判断して支給したものである。

(3) 同(三)の(3)は争う。

(四) 同(四)は争う。

第二当裁判所の判断

一当事者

申請人の主張(一)の事実は当事者間に争いがない。

二 雇用関係の存否

1  退職勧告の状況

昭和六三年五月末、被申請人の代表者澤井壮太良が申請人に対し、申請人が中井保に被申請人の顧客の注文を回したことや、昭和五九年九月ころの税務調査において申請人に不手際があったことを理由に、昭和六三年六月末日をもって退職するよう勧告したこと、並びに申請人が同月末に本件退職願いを被申請人に提出したこと、及び同年七月二九日付け書面により右退職願いの取消の意思表示をなしたことは当事者間に争いがない。

本件全疎明資料及び審尋の結果によれば、次の事実が一応認められる。

被申請人の代表者澤井壮太良は、昭和六三年五月末申請人に対し、前記のごとき理由を挙げて、同年六月末日をもって退職する旨の退職願いを提出するよう勧告したが、その際、「退職願いを提出しなければ懲戒解雇にする。」とか、「懲戒解雇になれば退職金も出ないが、退職願いを提出すれば退職金も払う。」などと述べて、申請人に対し強く退職を迫った。これに対し、申請人はその場で返答をしなかったところ、被申請人代表者から同年六月末まで考えておくようにと言渡された。さらに、翌日被申請人が、従来申請人が経理担当者として保管していた銀行預金通帳を申請人から取り上げ、それ以後、現金出納に関与させないようにするなどし、申請人に対し退職を既定のこととした処遇をするようになったため、申請人は心理的に追い詰められ、懲戒解雇され退職金も貰えなくなることを恐れ、同月三〇日被申請人に対し本件退職願いを提出した。そしてその際、被申請人が退職金と、同月二〇日から三〇日までの給与の清算分として金二五〇万円を申請人に支払い、申請人はこれを受領した。しかして申請人は、後日弁護士である申請人代理人と相談のうえ、同年七月二九日付けで右退職願いの取消通知を被申請人に交付した。

右の事実が一応認められ、被申請人代表者の陳述(証拠略)のうち右認定に反する部分はにわかに措信できず、他に右認定を左右する証拠はない。

右認定事実によれば、被申請人は申請人に対し、退職願いを提出しなければ懲戒解雇することや懲戒解雇に伴う不利益を告げて退職願いの提出を要求し退職を勧告したものである。しかるところ、使用者が労働者に対し退職を勧告するに当たり当該労働者につき真に懲戒解雇に相当する事由が存する場合はともかく、そのような事由が存在しないにもかかわらず、懲戒解雇の有り得ることやそれに伴う不利益を告げることは労働者を畏怖させるに足る違法な害悪の告知であるといわざるを得ず、かかる害悪の告知の結果なされた退職願いは強迫による意思表示として取消し得るものというべきである。そこで次に懲戒解雇事由の存否につき検討する。

2  懲戒解雇事由の存否

(一)  申請人の中井保に対する援助、協力について

本件全疎明資料及び審尋の結果によれば、中井保は被申請人の元従業員で、かつ被申請人代表者の従兄弟であること、同人は昭和五六年、五七年の二度にわたり横領事件を惹起したため、被申請人から懲戒解雇され退職したものであるところ、その後ニシムラ物産に就職し、昭和五九年一一月ころからは、ニシムラ物産の名義を利用して実質的には酒類販売業を自営するようになったこと、その際申請人はニシムラ物産に対し、同月一九日付けで中井保の身元保証をなしたこと、中井保の営業と被申請人のそれとは地域的に競合する部分はあったが、昭和六一年ころ同人が右営業を廃止し、ニシムラ物産を退職するに際し、自己の顧客を被申請人に引き継いで欲しい旨申し出て、結果的にそれらの顧客は被申請人の得意先として引き継がれたこと、なおその間、中井保のニシムラ物産に対する債務が累積していたため、申請人が身元保証人としての責任から、右債務につき昭和六一年八月二日付けで保証したこと、以上の事実が一応認められ、右認定を左右する証拠はない。

右認定事実に徴し検討するに、被申請人は、横領事件により懲戒解雇され、しかも被申請人と競合する営業をなさんとする中井保を申請人が援助、協力したことが背信性を有するかのごとく主張するが、中井保が被申請人から懲戒解雇された者であれ、その再起に当たり、身元保証人となるなどして援助、協力することが被申請人の従業員としての道義に反することとは到底思われない。さらに、その営業が被申請人と競合する点についても、中井保が被申請人に対し競業回避義務を負っていたことも認められず、また、申請人がことさら被申請人に損害を与えるために同人の競業行為を慫慂したことも認められないから、いずれにしても、申請人の右行為はさして非難に値するものではないというべきである。

(二)  注文を中井保に流した事実について

被申請人は申請人が被申請人の顧客からの注文を、中井保に横流しした事実がある旨主張するところ、本件全疎明資料及び審尋の結果によれば、昭和五九年八月ころ、被申請人の顧客から「被申請人に注文したビールが別の店から届いたのはどういう訳か。」という苦情の電話があり、このことで被申請人は申請人が顧客からの注文を中井保に横流ししたものとの疑いを抱いていることが一応認められるが、右疑いを裏付ける客観的具体的証拠はなく、あくまで疑いの域を出ないものというべきである。

のみならず、本件全疎明資料及び審尋の結果によれば被申請人は、右の件に関し本件退職勧告に至るまでの約四年近くの間、申請人に対し事実を確認したこともないし、何らの注意、警告を発したこともなく、放置してきたことが一応認められ、そうだとすると従来から被申請人自身右の件を申請人の重大な背信行為として認識していたかも疑問であるといわざるを得ない。また本件疎明資料によれば右の件による被申請人の実質的、経済的な損害は極めて少ないものであることが一応認められるし、さらにかかる単発的出来事により被申請人の社会的信用がさ程傷つく恐れがあるとも思われない。

(三)  税務調査について

本件全疎明資料及び審尋の結果によれば、昭和五九年九月被申請人は税務調査を受け、裏帳簿等を発見され脱税が発覚したことが一応認められるが、右脱税発覚につき申請人に何らかの不手際があるとはにわかに認められない。

仮に右脱税発覚が申請人の何らかの不手際に起因するとしても、これにつき被申請人が申請人を非難することはクリーンハンドの原則に反するものであり、ましてこれをもって懲戒解雇の事由にすることは到底許されないというべきである。

(四)  総括

以上のとおり申請人につき中井保との関係や、同人に注文を流したとの件あるいは税務調査の件について、懲戒解雇に相当する事由が存するとは認め難く、他に懲戒解雇事由が存することの主張及び疎明はない。

3  本件退職願いの取消の可否

以上によれば、申請人には懲戒解雇に相当する事由が何ら存しないにもかかわらず、被申請人は申請人に対し懲戒解雇の有り得ることやその場合の不利益を告知して退職願いを提出させたものであるから、申請人の退職の意思表示は違法な害悪の告知の結果であって、強迫による意思表示として取消し得るものというべきである。なお、被申請人は申請人が退職勧告の後一か月の間熟慮のうえ本件退職願いを提出したから、申請人の真意に基づくものであるというが、例えば申請人が懲戒解雇を免れようとの気持で任意退職を決意したのでなく、他に何らかの意図ないし思惑があって退職を決意したといったような、申請人の退職の意思表示が被申請人の強迫によることを否定し得る事情は本件全疎明資料によるも見当たらず、そのような特段の事情の存しない本件においては、単に被申請人の退職勧告から申請人が退職の意思表示をするまで、一か月の期間を経たというだけではその意思表示が任意のものと認めることができない。

そうだとすると、申請人が右退職の意思表示を取消したことは前記のとおりであるから、申請人の任意退職は成立せず、被申請人との雇用関係は存続しているものというべきである。

三 給与等請求権

1  給与

申請人が本件当時被申請人から月額四〇万円の給与を支給されていたことは、当事者間に争いがない。

しかるところ、申請人は栄良産業の名義で支給されていた金一〇万円の給与は実質的には被申請人が支給していた給与である旨主張するので検討するに、本件全疎明資料及び審尋の結果によれば、被申請人と栄良産業とは役員構成もほとんど共通し、また営業の拠点も同一であるが、一方栄良産業の営業目的は不動産の賃貸等であってその事業内容を被申請人のそれと区別し得ることが一応認められる。

右認定事実に照らし、栄良産業と被申請人とが実質的に同一であることを肯認する余地がないではないが、事業内容や経営形態、経理状況等両社の実体をさらに解明しなければその実質的一体性を直ちに肯定し難いものというべきところ、本件全疎明資料によるも、未だこれらの点を十分には明らかにし得ないから、栄良産業が被申請人と一体であってその一部であるとはにわかに認め難い。

従って本件において、被申請人が栄良産業の名義で支給されていた給与についても支払義務を負うとはいえない。

2  一時金

申請人は被申請人に対する一時金請求権として、毎年八月一〇日及び一二月一〇日に一か月分の給与相当額の支給請求権を有する旨主張するので検討するに、本件全疎明資料及び審尋の結果によれば、被申請人においては一時金につき就業規則等の定めはないが、従業員に対し毎年八月一〇日及び一二月一〇日に一時金を支給する慣行が存すること、しかしその具体的な金額は慣行としても常に一定ではなく、その時々の被申請人の決定によって定まることが一応認められる。

そうだとすると本件において、一時金については、既に具体的な金額が確定している分についてはともかく、少なくとも将来分について具体的な請求権は未だ発生していないといわねばならない。また、過去分についても、慣行により当然に一か月分の支給請求権があるとはいえず、具体的な金額が被申請人の決定又はこれに代わる何らかの理由により確定していることが必要である。

四 保全の必要性

1  給与等仮払仮処分について

本件全疎明資料及び審尋の結果によれば、申請人は被申請人から支払われる賃金により生計を維持していたものであり、母親と同居して同女を扶養していること、また、長女が事業の失敗により多額の負債を負って家を出た夫と離婚し、三人の子供を抱えているため、申請人がその生活費を援助していること、さらに、申請人が長女の夫の負債を保証していたためその返済もしていることなどの事実が一応認められる。

右事実に照らすと、申請人が本件において、昭和六三年七月から平成元年三月までの未払給与合計金三六〇万円及び同年四月一日以降第一審の本案判決言渡しに至るまで毎月二五日限り月額金四〇万円の給与の仮払いを求める限度で、必要性が認められ、その余(過去の一時金でその金額を確定可能なもの)についてはその必要性を肯認し難い。

2  地位保全仮処分について

申請人が本件において保全の必要性として主張するのは、もっぱら被申請人から給与等の支払いを受けられないことによる経済的困窺であって、それについては前項のとおり給与の仮払を命ずることで十分であり、任意の履行を期待するほかない地位保全の仮処分を必要とする具体的個別的事情の疎明がない本件では、右仮処分の必要性を肯認し難い。

五 まとめ

以上の次第であるから、本件申請は被申請人に対し昭和六三年七月から平成元年三月までの未払給与合計金三六〇万円及び同年四月一日以降第一審の本案判決言渡しに至るまで毎月二五日限り月額金四〇万円の給与の仮払いを求める限度で理由があるのでこれを認容し、その余は失当として棄却し、申請費用につき民訴法八九条、九二条を適用して主文のとおり決定する。

(裁判官 田中澄夫)

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